炊飯器が壊れました
麗らかな春の日、休日の朝、私はいつものように早起きをしてリビングで寛いでいた。細君は、朝餉の支度を始めようとしている。普段の日曜日なら朝寝坊が日課となっている細君に「今日は珍しいじゃあないか、こんなに早く」と嫌味を言おうとしたその時に、聞き慣れた声で「炊飯器が壊れました。」という声が聞こえて来た。細君も声のした方を見ている。それは炊飯器だった。お互い炊飯器に歩み寄り、そして顔を見合わせた。電源が落ち、ウンともスンとも言わない。「炊飯器が壊れました。」これが彼女(女性の声でしゃべるのでこの炊飯器をそう呼ばせてもらう)が発した最後の言葉となった。4年前にインターネットで調べ尽くし、大枚をはたいて購入した直火炊きマイコン炊飯器。「おはようございます。」、「ご飯が炊きあがりました。」、「保温を開始します。」炊きあがったご飯よろしく、暖かみのあるふっくらとした声で家族に語りかけ、日々健気に活躍してくれていた炊飯器が、突然壊れてしまったのだ。愛おしさのあまり、思わず炊飯器を抱きしめようとする私を細君が必死で押さえた。
1999年にソニーから発売された犬型人工知能ロボットAIBOは、機会と人間の関係を根本的に変革した画期的な商品であった。機械自体が学習し、成長し、人間に働きかけ、ふれあいを求めてくる。単なるプログラムだとは分かっていても心癒される。細君の厳しい監視の目がなかったら、私も購入していたかも知れない。昨今の美少女フィギュアに嵌るオタク文化、ソフトウェア上のバーチャルアイドルは私の理解可能な範疇を超えてはいるが、おそらくそれに通底するものがあるのだろう。命の無いものに感じる愛情はしかし、確かに存在する。これまで普遍と考えられてきた愛情の形はドラスティックに変容している。一方で、生物の本能である、命ある者への愛情が、時として薄れ、忘れ去られてしまったのではないかと危惧せざるを得ない事件に直面すると、機械文明・情報化社会の中での愛の行方は、ますます曖昧模糊として混沌なものとなる。
しかし、あの朝感じた愛惜の情は、その炊飯器への愛着だけではない。それは「炊飯器が壊れました。」という最後の言葉にあるのだろう。電源が落ち起動しなければ、故障したことは誰の目にも明かであり、わざわざ「炊飯器が壊れました。」と言わせる必要もない。最後のひと言だけのために、その台詞を録音しプログラムに組み込んだエンジニアに私は会ってみたい。市道の交わりを超えた深いものを感じるのだ。まだ完全には壊れていない(壊れる寸前の段階で)状態で、なぜ「壊れます。」ではなく「壊れました。」なのか。禅の教えにも通じる深い哲学的思惟の所産か。感動の要因はまだある。私なら、最後の言葉として「本日までお世話させていただき有り難うございました。」とか、「ここでお別れするのは辛うございますが、、、」とか、「是非修理に出して、私を復活させて下さい。」など、余分な台詞まで組み込んでしまいそうなのだが、極めてシンプルに、まるで他人事のように「炊飯器が壊れました。」のひと言である。簡潔、簡明ですがすがしい。医師という職業柄、ご臨終の枕元に立つことも希ではない。常々、自らの臨終に際して、他人から宣言されるのも癪だなあと感じていたのだが、ここに来て私の辞世の言葉が決まった。しぶとく天寿を全うする気概は満々であるが、いざ永訣の時は、見守る家族を前にさらりと言おう。「私は死にました。」
ご飯が炊きあがると、「ピーピロリロ」と味気ない電子音。少しケチって購入した炊飯器は、音声ガイド機能がない。「炊飯器が壊れました。」万感の思いを込めた最後のひと言が、乾いた一粒の砂となって、荒涼とした砂丘に埋もれていく。寂寞とした喪失感とともに、一緒に暮らした蜜月の時を思い出す。もう一度あの炊飯器を購入しよう。その提案に細君はきっと、こう返事するだろう。「今度壊れたらね」。彼女にとって機械は機械でしかない。男のロマンだと反論するにも、今回は少し女々しい事案の様な気もする。「早く壊れないかな〜」と思いながら、今日もご飯を噛みしめる。
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