院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ

 

報得川を辿る

 

強い雨が降った次の日の朝、近くを流れる報得川(むくえがわ)を散策した。最近、川沿いの道が整備され、いつか上流まで歩いてみようと思っていたのだ。普段目にしている河口付近の報得川は、潮の干満で淀んだ水面を上下させる、流れるともないのんびりとした川である。しかし、その朝の報得川の上流は(川の全長からすると、上流とは言えないだろうが、気分はもう上流である)、山間の渓流を思わせる佇まいで、昨夜からの雨を集めて轟々と流れている。こんなにも近くに自然を体感できる場所があったのだ。「五月雨をあつめて早し報得川」。思わずつぶやいて、詩才がない自分に辟易していると、「まるで山原みたいね〜」と細君が言う。この日ばかりは、感動をさらりと散文で表現でききる、細君の図太い神経がうらやましかった。

 

五月雨も梅雨も旧暦5月の長雨を指す言葉であるが、恵みの雨を有難がる農耕民族のDNAが薄れ、じめじめとした季節のイメージが定着し、現在では梅雨が一般的に用いられるようになった。個人的には五月雨が好きであるが、世の流れには逆らえない。梅雨と書いて「つゆ」と言う。中国から梅雨として伝わり、江戸時代から「つゆ」と呼ばれるようになったという。「つゆ」の語源は、木々の露に由来するという説と、その時期に熟した梅の実がつぶれる『潰ゆ(ついゆ つゆ)』ことから来た説がある。中国のからの梅雨は、カビをもたらす長雨、黴雨(ばいう)を起源とする説が有力。黴(かび)では語感が悪いので、同じ発音の「梅」をあて「梅雨」となった。語源を調べるのは楽しい。言葉は今を生きていて絶えず変化していく。言葉の起源を辿るのは、川を上流へと辿るのに似ている。支流が幾つもあり、時に本流が分からなくなる。誤用や転用も人間だからこそ。それぞれの思いを集めて、やがてひとつの川となって河口に注ぐ。川底に沈殿する泥も、水面を漂う浮草も、言葉、ひいては文学というかけがえのない文明の所産なのである。




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