耳順
今年60歳になる。還暦、耳順である。インターネットでの情報収集が欠かせない現代において、心すべきことは、何を見ても聞いても、まずは疑うこと。情報が氾濫し、操作され、あるいは精巧に捏造される現代において、身を守るすべとしての猜疑心は、不可欠なものであろう。人の言っていることが、素直に聴けないのは、悲しいことであるが、まあそれも時代の流れとしては仕方のないことであろう。耳順は遠い昔の戯言であろうか。もっとも、本来の耳順は、相手の助言や諫言の本意を理解し、それを素直に受け入れることができる心の境地をいうのであるが、私利私欲を超えた家族の話ならともかく、語りかけてくる人が、信頼できる人か、その内容が真実であるかどうかの判断が、情報に左右されるものである以上、耳順の境地には立てそうもない。いやそもそも耳順には人を見る目も内包されているのだろう。それなら、ますます私には無理である。
現在将棋にはまっている。指す方ではなく見るほうである。将棋は駒の動かし方がわかる程度で、ド素人の域を出ないのだが(勉強して強くなりたいとも思っていない)、若き天才棋士、藤井聡太のファンなので、彼の将棋の対局はYoutube等でチェックしている。藤井聡太棋士が、公式戦50勝をあげた時のインタビューで、「ひとつの節目だとは思います」と言っていたのだが、節目を“ふしめ”とは言わずに“せつもく”と言っていた。ネットでも語彙の豊富さが話題になっていたので、インターネットでググってみた。“せつもく”は“ふしめ”に比較すると、やや細かい区切りを意味するようである。「ひとつの節目だとは思います」を解釈すると、「50勝は一つの区切りではあるけれども、これからの長い将棋人生の中でみると、小さなことで、これからもっともっと勝利を積み重ねていきます。」という、淡々として、抑制の効いた自信の表れである。恐るべし16歳である。
さて、還暦は私にとって節目ではあるが、“せつもく”ではなく、やはり“ふしめ”であろう。「これからの長くない人生」を考えると、大きな“ふしめ”となりそうである。息子と娘が大学を3月に卒業し、10月には開業10年目を迎える。しかし、おおきな“ふしめ”も、ちいさな“せつもく”の積み重ねであるとするならば、1日1日を大切に生きてゆこうと、柄にもなく思いを巡らせている殊勝な私がいる。耳順の境地を少し垣間見た気がする。
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