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ダンテの問いかけ ドラクロワ





ドラクロワの天才は揺るぎない。歴史画に始まり、宗教画、肖像画、風景画、静物画、すべてのモチーフを圧倒的な画力で描き、時の画壇・新古典主義の予定調和的な美に一石を投じたばかりでなく、写実主義、印象派へと続く近代絵画の萌芽となった。

図版は1822年の「ダンテの小舟」。ダンテ・アリギエーリの『神曲』地獄篇・第8歌の場面を描いた、ドラクロワ24歳の時の作品である。赤い頭巾を被ったダンテと案内人ウェルギリウスが小舟を駆り地獄の川を下る。小舟に取りすがり這い上がろうとする亡者の筋骨逞しい描写は、ルーベンスをも凌駕する。燃えさかるディーテの街を背景に、船のともに齧り付く地獄の住人の鬼気迫る形相。恐怖に耐え、それに立ち向かう現世(うつつよ)の詩人達。斜め前方に掲げた右手は、不屈の意志を表現するにはいささか頼りない。しかしそれは反対側に伸ばした左腕に鑑賞者の視線を誘う。その先には互いの存在を確かめ合う様に絡まるダンテの左手とウェルギリウスの右手。それはこの絵のまさに中央に描かれており、紛れもない主題である。躍動する画面の中心にあって、そこだけ時が止まっている。弱々しい人間が、弱々しいが故に犯す罪により魔物と化す地獄の直中で、何を求め彷徨うのか。あらゆる欲望と無限の罪の深さにおののきながら、人生の真の幸福を自らに問いかけるダンテ。彼がマエストロと仰ぎ私淑する古代ローマの詩人ウェルギリウスは、愛するベアトリーチェの化身か。荒波に揉まれ、亡者の襲撃に耐え、なお力強く進む小舟の存在感もまた素晴らしい。真っ赤な頭巾と青いマントの対比の美しさ。三角形に組み上げられた安定した構図は激しい動きを高密度に凝集し、画面に重厚な風格を与えている。まさにロマン派の旗手たらんとするドラクロワ、会心の傑作である。

ドラクロワは1798年、パリ近郊のシャラントンで裕福な外交官の家庭で生まれた。若くして文学、音楽そして絵画になみなみならぬ才能を発揮し、ゲランのアトリエで伝統的な技法を習得する。そのアトリエで出会ったジェリコーが彼の芸術家としての運命を決定する。1819年ジェリコーの大作「メデューズ号の筏」がサロンに入選すると、伝統的な技法を墨守する新古典主義一色の画壇に頂門の一針を加えるような衝撃が走った。そのジェリコーが不慮の事故で夭折すると、ロマン派を担う画家としてドラクロワが駆り出された。そしてドラクロワはそれに応えるべく、次々と大作をものし、巨匠への道を揺るぎないものにしていく。しかしそれは、画家にとって必ずしも幸福な道ではなかったのではないかと私は思う。壮大な歴史画や宗教画よりも、卑近な肖像画や静物画にドラクロワの人間としての魅力、画家としての力量を感じる。「墓地の孤児」(1824年)が肖像画という範疇に収まると仮定すれば、それは紛れもなく肖像画の頂点を極める作品であると私は信じる。時代を担う重責を離れ、ひとりの画家として、ドラクロワが何物にも囚われずに描いた作品が、一作品でも多く残っていればと思うのは私ひとりではあるまい。その一品一品が、ダンテの問いかけに応える手がかりを与えてくれるのだから。






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