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奪われた心の欠片 マグリッド





もうすでに6年の歳月が流れた。ベルギー王立美術館展で、ルネ・マグリッドの「光の帝国」に奪われた心の欠片は、何処をさ迷っているのだろう。絵の前に佇んだ瞬間、私を襲ったあの不思議な感情の奔流。その流れに流されまいとして立ちすくむ。結局何も理解してはいなかったのだ。無知を知ることは心穏やかであろうはずがない。しかし、その時の私は、画布に描かれた夜と昼のしじまの中で、街灯に照らされた水面と、暗い森の背後に輝く青空と雲の様に、悲しいほどに澄みわたった心情で満たされていた。小さな波紋とかすかな空気の揺らぎで零れそうになる。それは、森閑とした寂寥感ではなく、清々しい孤独感であった。

マグリッドは「光の帝国」を二十数点残している。図版はベルギー王立美術館に特別に依頼を受けて制作した1954年の作品である。奪われた心の欠片を取り戻そうと、二十世紀を代表するこの名画について、いくつもの解説書、美術書を読み漁った。しかし、飢餓感は満たされない。ある時ふと思った。「この絵を理解する必要があるのだろうか? ただ感じればいいのではないか」と。偏狭な私見ではあるが、古今の名画を俯瞰すると、詩情を感じる絵画は数多く存在する。しかし、詩そのものであると思える絵画はそう多くはない。アンリ・ルソーの描いた作品がそうであるように、マグリッドの絵も一編の詩歌なのだ。だとすれば解説などは無用の長物であり、作品に対して素直に心を解き放てばいいのである。

シュールレアリズムとは形而上的なインスピレーションや無意識のなせる偶然の産物に、現実社会よりもさらに現実的な何かを求めた前衛的芸術の形態で、超現実主義と訳される。学生時代、いっぱしのシュールレアリスト気取りの私にはマグリッドは、中途半端な存在であった。彼の絵は、意識的な自我の検閲を排除しきれていない安直なデペイズマン(シュールレアリズムの手法で、意表を突く組み合わせ)としか映らなかったのだ。

「光の帝国」を前にして、画集ではなく本物の絵に出会う事の意義を改めて知った。「無知の知」に打ちのめされながらも、私はひとつの結論を導き出していた。マグリッドは現実に境界線を引き、それを超えようとしたのではなく、境界線を引く行為そのものを否定し、現実的にあり得ない夜と昼の時間的なデペイズマンを呈示しただけなのだ。作品の価値は、作者の独創性にあるのではなく、鑑賞者の想像力に委ねられている。マグリッドの作品に「詩」を感じた瞬間であった。その時奪われた心の欠片。私はそれを取り戻すことはできないであろう。しかし私はすでに気づいている。この喪失感こそが重要であると。まるで韻を踏むように、リフレインを刻みながら、奪われた欠片の鋳型は私の心に残っているのだと。






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