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冷たさと、温もりと アングル






大学2年の時、私は初めてアングルの作品に触れた。特別出品されていた「泉」(図版左)の前は黒山の人だかりで、係の者が「立ち止まらずにお進みください」と遠慮がちに鑑賞者を誘導していた。「立ち止まらずに絵画が鑑賞できるものか」心の中で毒づいて、私はその絵の前に立つ。ほぼ等身大に描かれた少女は可憐で清楚に佇んでいて、淫奔で蠱惑的な魅力とは無縁の天真さに眩しさを感じた。この神々しさは鑑賞者に、ある一定の距離を要求する。この作品に対する私の第一印象は、湧き出る泉に触れたような「冷たさ」であった。ドラクロワに傾倒していた私にとって、新古典主義の重鎮は伝統や格式を墨守する、権威の僕としか映らなかった。私はまだ若かったのだ。

数年後私は、東京ブリヂストン美術館でアングルの「若い女性の頭部」(図版右)に出会う。小脇に抱えられそうな小さな画布の、さらにその中央に描かれた女性の肖像。大きな瞳、バラ色に染まるふくよかな頬。たおやかで優美、媚びることも阿ることもなく、自らの若さと生命力を画家に委ねている。この「温もり」はどこから来るのだろう?画家のモデルに対する愛情もさることながら、自ら美しいと思うものに対する畏敬。それをキャンバスにとどめることの出来る喜び。保守・革新の枠に囚われない純粋芸術たる自負。それが、私の心に暖かさを与えるのだ。アングルが好きになった瞬間であった。

新古典主義の旗手ダヴィッドに師事し、優秀な成績でローマ賞を受賞したアングルは意気揚々とイタリア・ローマへ留学する。しかしそこで目にしたものは、人間の理想美を具現化したギリシャ・ローマ時代の力強い男性的な芸術ではなく、人体の正確な描写力を超えた、嫋やかな女性的な美しさだった。「芸術は今、革新を必要としている。私はその革命家になりたい。」若き芸術家の覇気は、フランスの美術界が、アングルをフランス美術アカデミーに招聘したことで頓挫する。皇帝ナポレオンと供に失脚したダヴィッドなき後の新古典派の旗手として、アングルは伝統の遵守という重荷と、自身の理想とする芸術とのジレンマに苦悩する。しかしアングルの天才はその苦境にこそ発揮された。伝統的な確かな技法で、新古典派を代表する数々の傑作を作成し、人材の育成にもその手腕を発揮した一方で、酷評を甘んじて受けながらも、自身の理想とする作品も同時に描き続けた。権威や民意に翻弄されることのない頑固で純粋な芸術家としてのアングルの魂は、民衆の支持を得て既存の価値観の破壊という波に乗って台頭してきたロマン派の画家たちよりも、芸術を愛するというその本質において、むしろ革命的ともいえるだろう。

10年前、横浜での展覧会でアングルの「泉」に再会した。辻褄を合わせただけの予定調和的な美と私が錯覚していたものは、理想を極限まで突き詰めて、様式化と定型化の誹りを恐れず、芸術家として全身全霊をかたむけて放った渾身の一作であると確信した。冷覚は有髄線維で伝導速度が速く、温覚は無髄線維で速度が遅いという。今頃になって「泉」の人肌の温もりが伝わってきた。私も少し大人になったと思った。






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