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点描が織りなす詩情 スーラ


   


セーヌ川の中州であるグランド・ジャット島。そこに集う比較的裕福な人々。うららかな午後の陽ざしを受けて輝く川面、風にそよぐ木々の葉、柔らかに敷き詰められた芝生。色を混合しない点描のおかげもあって、彩度の高い画面ではあるのだが、自由奔放に満ち溢れ、縦横に駆け巡るべき光子たちは、偏りなく適切に配置されどこにも破たんが見られない。人々はカメラのシャッターを待つように、みな動きを止めて息を詰めている。会話もなく笑顔もない。点描により、マチエールが失われ、動きと時間が凍りつくことによって、スーラ独特の詩情が生まれるというのなら、その詩情の行きつく先は何処なのだろうか?

3m、縦2mの大きな画布に描かれた、近代美術を代表する名画「グランド・ジャット島の日曜日の午後」。シカゴの美術館で初めてこの絵に出会った時の違和感は、私の中で小さなしこりとなって残っている。当時の私はその違和感を受け入れられずに心を閉ざしてしまったのだ。美術館に所蔵されるような芸術作品には、個人的な嗜好を超えて、すべからく心を開くべきだと考えていた私とって、口惜しい思いであったのだろう。スーラや新印象派に関する美術書を読み漁り、その違和感の正体を私なりに理解しようと試みた。しかしそれは無駄な努力だった。

ジュルジュ・スーラはパリの裕福な家庭で生まれた。絵画に理解のある家族のおかげもあって、経済的な心配をせずに制作に没頭できた。作品が売れなくても、評価されなくても、何不自由なく暮らしていける。物質的なゆとりは芸術家として、その芸術性を高めるうえでは、決してプラスにばかりは働かない。しかしスーラは持ち前の探求心でそれをカバーした。色彩理論の研究である。混色しない細かい色の配置とその視覚効果。作者がどう描きたいかではなく、鑑賞者がどう見えるかに重点が置かれる。前衛的で斬新な点描法は「新印象派」と名付けられ、人々に受け入れられていく。しかし、新印象派が一つのジャンルを形成するようになると、自らの独創性の浸食を恐れて、スーラは自分の殻に閉じこもる。そしてその探求心は、「色彩の配置」から「色調や線の方向」に移ることとなる。乏しかった感情表現が豊かになり、動きが加わる。しかし、その新たな制作活動はあまりにも突然に幕を閉じる。ジフテリアによる咽頭炎、31歳の若さでスーラは息を引き取った。
遺作となった「サーカス」は、躍動感あふれる構図で、楽しげな観客の笑い声、音楽と喧噪が聞こえてくる。スーラに欠如しているものが満たされると、途端に詩情が失われ、私の中のスーラでなくなる。やはりスーラの魅力はグランド・ジャット島にあると思う。よく見ると、点描は規則正しく配置されているのではなく、細かな揺らぎとリズムがあり、作者の息づかいを伝えている。鑑賞しているのではなく、見せられていると勝手に思い込んでいた私は、点描ひとつひとつに込められた作者の小さな声を聴くことができなかったのだ。端正に佇む寡黙な人々に話かける勇気がなかったのだ。今度シカゴ美術館に行くときは、「いいお天気ですね」誰ともなく話しかけてみよう。案外明るく振り返り、日曜の午後のような暖かい笑顔で、返事をくれるかも知れない。






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