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睡蓮に託された思い モネ

    


 モネは生涯で200枚以上の睡蓮を描いた。そのうちのひとつ、東京ブリヂストン美術館所蔵の「睡蓮の池」。この美しい作品の前で、私はいつもひとりの女性を思い浮かべる。可憐な花は、今は閉じ、眠りにつこうとしている。水面に映える夕焼け空が、薄暮のしじまを彩っていて、そのあかね色の輝きの美しさに息をのむ。本来なら逆光の効果でシルエットとして沈むはずの柳の葉には色彩が与えられ、水中に覗く水草とともに、鏡のように硬質な水面に安らぎを与えている。その柳の枝は、逆さにしだれ、たゆたって、視線を画面奥へ、夕日の沈む彼方へと誘う。睡蓮は浮島のように所々に寄り集まり浮かんでいる。池底に根を張り、浮き草のようには漂わない睡蓮。その確かな存在感。モネの絵は、画布を眺めるだけの鑑賞を許さない。画家の瞳になって、画家が描く同じ風景を、見させられるのだ。額縁はすなわち、モネの虹彩であり、時空を超えて開け放たれた窓に他ならない。
 幼い頃から画才を発揮したモネは、16歳でブータンと出会い、画家としての運命が開かれる。パリでの画学生時代クールベやマネと知り合い、兵役後はルノワール、シスレーらと共に画架を並べた。労働階級の娘だからと、実家に結婚を反対されたカミーユは、仕送りを止められ貧困にあえぐモネを献身的に支えた。サロン入選作「緑衣の女性」に、その愛らしい面影がみられる。長男が生まれ、二人は1870年正式に結婚する。父の遺産を相続し、経済的にも落ち着くと、モネの最も幸福な時期が訪れる。不朽の名作「ひなげし」はその頃に描かれた。しかし幸福は長くは続かない。第一回印象派展は商業的に失敗。カミーユは病弱となり寝込むことが多くなる。それと相前後して、家族ぐるみのつきあいであったオシュデ家の妻、アリスに心惹かれ、道ならぬ恋に翻弄される。以後3年間モネは妻への背徳に苦しめられ、画業にも翳りが見られるようになる。1879年に描いた「死の床のカミーユ」には良心の呵責や慚愧の念に留まらない、カミーユへの哀しくも深い愛情を感じる。妻を看取ったその日、モネは友人の医者に悲嘆にくれた手紙を書いた。「あなたにお願いがあります。質屋に行ってペンダントを出して来て欲しいのです。それは妻にとって、ただひとつの思い出の品で、首にかけてあげたいのです。」
 ある時、睡蓮の絵の前でふと思った。極楽浄土の池に咲くという蓮の花。モネの描く睡蓮は、32歳の若さで世を去ったカミーユへの鎮魂歌ではないだろうかと。描いても描いても、描き尽くせなかった睡蓮。その答えとなる遺作が、オランジュリー美術館にあるという。いつか私はそこを訪ねるだろう。その時は妻を連れて行こうと心に決めている。





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