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オフィーリアとベアトリーチェ ミレイ/ロセッティ





 一度見たら忘れられない絵がある。側頭連合野の深層に刻みつけられ、しかし瞬時に脳裏に浮かんでくる。細部の記憶は曖昧模糊としていても、作品の主題とその印象は常に新鮮で瑞々しい。ミレイの「オフィーリア」(図版右)はそんな絵画の一枚である。テイト・ブリテンで、この絵を見た時、軽い目眩を覚えた。川辺に生い茂る草花の見事な描写。手折られた花は、身を切るように冷たい水面にたゆたっている。半ば浮き、半ば沈み流れていく乙女の、死にゆく表情は、ぞっとする程に美しい。一刹那、正気に戻ったオフィーリアが両手を広げて、死を受け入れたかのように見える。人間にタナトスという情動がもしあるとすれば、それはこの絵の中で具象化されているのだろう。
 オフィーリアは、シェークスピアの悲劇「ハムレット」のヒロインである。愛するハムレットに父を殺害され発狂する。森をさまよい歩く狂女は、ある日、雛菊やイラクサで作った花輪を柳の枝に掛けようとして、小川に落ちてしまう。川面を流れながら、祈りの歌を口ずさみ、ついには溺れて死んでしまう。

『星が眠る静かな暗い流れに沿って、
百合のような白いオフィーリアが流れてゆく。
ゆるやかに長いヴェールにつつまれながら。
遠くの森からは鹿を追う笛の音が聞こえてくる。』

 ミレイはイギリスの代表的な画家。ロセッティらと共に、王立アカデミーに反旗を翻して、ラファエル前派を立ち上げた。「オフィーリア」のモデルは、彼等のマドンナであったエリザベス・シダル(愛称リジー)。この絵を描くためミレイは、バスタブに水を張り、リジーに長時間ポーズをとらせたため、風邪をひかせてしまったという逸話がある。リジーは10年間の交際を経てロセッティと結婚する。幸せな結婚ではなかった。ロセッティは病弱な恋人への同情心から結婚を決意したが、心はすでにファム・ファタル(運命の女、破滅へ導く魔性の女性)であるジェインに囚われていたのだ。夫の不義に胸を痛め、女児を流産したリジーは、阿片チンキの過剰摂取で急逝する。自殺とも事故ともつかない突然の死にロセッティはうろたえ、良心の呵責に苛まれる。「オフィーリア」を見る度に、二つの悲劇が合わせガラスのように重なって、その透明な悲しみが胸を撲つ。同じくテイト・ブリテンにある「ベアタ・ベアトリクス」は、ロセッティがリジーの死後、追悼のために描いた作品(図版左)。ダンテの恋人ベアトリーチェに姿を借りたリジーは、すべてを受け入れ天に召されようとしている。なんと穏やかな佇まいなのだろう。悔恨も懺悔も、身勝手な男性の一時的な感情の起伏にすぎない。この作品に永遠の生命を吹き込み、名作たらしめているのは、画家の技倆ではなく、生きることの悲しみを知るリジーの人間的な美しさである。





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