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Something Special デュフィ





 デュフィの作品は、私にとって「Something Special?何か特別なもの」である。何が特別なのか、自分でも分からない。それを明らかにすることが本稿の目的ではない。言葉にすることでニュアンスを失うものが、私の心の中に存在する。そのことを楽しみたい気持ちもある。
 図版は「オーケストラ」と題された作品。16年前、ニュー大谷美術館のデュフィ展でこの絵を見た時の感動を、今でも鮮明に思い出す。ひとつひとつの楽器の音色が目で見える。奏者の指先の繊細で素早い動きが聴覚に反応し、観衆の熱気が鼻腔を満たす。妙にしっくりとくる五感の融合。自由奔放な輪郭線とそれに囚われない色彩の配置。私は指揮者になってタクトを揮う。こんなにも楽しく、胸躍る絵画があるのだろうか。二十世紀最高のチェロ演奏家、パブロ・カザルスの残した有名な言葉。「デュフィの作品を見ていると、その曲目までは分からないものの、何調で演奏されているかは一目で分かる」。私は勝手に想像する。モーツアルト交響曲第41番ハ長調 K.551。
 貧しくも心豊かな音楽一家に育ったデュフィは、15歳で、夜学の美術学校に通い出して、画家としての第一歩を踏み出す。印象派に傾倒し、その後のフォービズムやキュビズムの時代を経て、50歳が手に届く頃に彼独特のスタイルを確立する。その芸術的変遷の折々で数々の佳作を生み出すが、飄々と無人の野を行くがごとき六十歳以降の作品に心惹かれる。黄色やオレンジ、赤を基調とした演奏会やレセプション。緑や青で埋め尽くされた競馬場や南フランスの風景。そこには音楽があふれ、会話が飛び交う。芝生の草いきれや人混みに漂うオーデコロンと葉巻の香り。さわやかな風が頬をなで、時に夕立が髪を濡らす。
 芸術作品を味わうということは、その作品に籠められた作者の魂に立ち入る事である。それこそが絵画鑑賞の醍醐味なのだが、一歩踏み込む毎に、こみ上げる感動と引き替えに、わずかだが心の疲労を感じる。人ひとりの人生と向き合う煩慮と言い換えてもいい。しかしデュフィの絵はその種の疲労感とは無縁である。それは彼の芸術が平明で底が浅いということではない。彼の絵の前では、知識という無味乾燥な衣装を脱ぎ捨て、絡みつくいくつもの呪縛から逃れて、ただ感じるままに、心を解き放つことが出来るのだ。何という至福の時を、彼は与えてくれるのだろう。関節リウマチの罹患、戦時下の隠遁生活など、決して平穏な生涯ではなかった。しかし家族の愛情に恵まれ、画家としての名声も得て、命尽きるまで、生きていることの喜び、その軽やかな旋律をキャンバスに奏で続けた。「今夜はすごく幸せな気分だよ。暗闇の中で、新しい赤を発見できたからね」。嬉々として幼い姪に語りかけるデュフィ。老いてなお天真爛漫な好々爺。彼は私の中の「何か特別なもの」について、いつか話してくれるだろう。その日が来るのをのんびりと、しかし心待ちに待つ自分がいる。





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