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朧に浮かび上がる確かな存在 カリエール

 

両の手のひらを胸の前で開く。答えが出ないことは分かっている。過剰な自信に鼻を高くした若き頃。己の不甲斐なさに唇を噛んだ日々。その度に大きく感じたり、あるいは小さく萎縮する私の手。かつて憧れた手のひらにどれだけ近づいているのだろう。これからどれだけ近づけるのだろう。

三十数年前のことである。確固たる目的意識を自覚しないまま、なんとなく医学部に入学し、自分の進路に何らかの必然性を求めていた私は、ある美術館で小さな絵に心惹かれた。それは「母と子」という作品で(図版左)、作者はカリエール。日本では無名にちかいその画家に興味をもった私は、図書館の古びた書架に鎮座する百科事典で、彼の代表作「病める子」(図版右)に出会ったのである。当時書き留めた文章を抜粋する。

 

『限りなく優しい光によって描出された母と子。その貧しくも美しい風景、深淵にして永遠なる情景について語り尽くすことができるだろうか。立ち入ることの出来ない深い愛情の絆。病の子供を懐く母親の手のやさしさ、暖かさ、偉大さに心打たれる。この子を病から救えるただひとつの手。願わくはこの母親のような手をした医者になりたい。叶わずともそれに少しでも近づきたい。そうすれば病気を治すことだけでなく、立ち入る事の出来ない人間と人間の絆を守ってやることができるかもしれない。それが医療の本質かもしれない。迷いが吹っ切れたような気がした。自分の将来の意味づけなんてどうでもいい。そんなものは後から駆け足でついてくる。今は他になすべき事があるだろう。もっと大切なことが。』

 

医療の本質。そんな大それた事を軽々しく口にする青二才は、しかし三十数年の時を超えて、私の心を揺り動かす。なすべき事は、なされたのだろうか? たどり着くべき医者に私はなっているのだろうか?  

 カリエールは十九世紀末のフランスの画家で象徴主義に名を連ねる。しかし、独自の芸術を展開し、ロダンを除けば、何者にも与しない孤高の画家であると私は思う。朦朧とした背景から浮かび上がる人物。喜びも悲しみも、嘆きも怒りも、研ぎ澄まされた感性で純化され、確かな伎倆で、彫塑するかのごとく描ききる人間像。物質的な存在を担保する色彩の情報は、より根源的な光に収束し、輪郭が朧になるのとは裏腹に作者の語りかける物語は、より明瞭に心に届く。二十歳そこそこの未熟な若者が感じたカリエールの芸術性は、何ら変わることなく私の心に息づいている。

 支えるべき家族の絆。その崩壊や偽善に直面することもまれではない医療現場。怒りを忘れ、肩を少しすぼめるだけで、冷静でいられる自分がいる。開いた掌を握りしめる。あの頃の私に還ってみよう。「病める子」に描かれた母親の様な暖かく大きな手になりたかった醇乎たる自分へ。母親の頬に手を当てる子供の手の温もりを、人の子の親として感じることが出来る自分自身を手土産にして。






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