スキマde美術館 本文へジャンプ

楽しく美しく ルノワール






印象派の画家で誰が好きかとよく尋ねられる。その時々の気分で、違う画家の名前を挙げる。節操がない。しかし、「ルノワール」と答えたことはない。画集を紐解く頻度も、忘れ得ぬ作品の数も群を抜く画家なのだが、どうしてだろうか。自問してみる。印象派における彼の立ち位置。ドラスティックな絵画技法の変遷。答えにならない答えが次々と浮かんでくる。浅薄な自己分析は、いつも途中で投げ出される。

図版は1880年から81年にかけて描かれた「船遊びの昼食」。印象派の手法を用いながらも、人物の輪郭は整えられ、構図は安定している。湖畔からのさわやかな風は、タープをはためかせながら、パリジェンヌの頬をなで、紙巻きたばこの煙を奪ってゆく。誰もが今を楽しんでいる。子犬をあやす女性は、後にルノワールの妻となるアリーヌ。彼女が肘をつくテーブルの上には、見事に描かれた果物やグラス、そしてワインボトル。素早い筆捌きが瞬間の情景を鮮やかに切り取る。遠くベラスケス、近くにはマネを彷彿とさせる。すべての人物が生き生きと描かれ、時空の壁は瞬時に霧散する。私はオープンテラスの傍らに佇み、今まさにカメラのシャッターをきる。空想というよりは、その空間に身を置く不思議な臨場感。こんなにも見事な集団肖像画があるだろうか?レンブラントの「夜警」を凌駕すると思うほどだ。それぞれの幸福なひとときが、私自身の喜びに繋がっていく。まさに芸術のなせる奇跡。印象派に決別を告げる少し前、ルノワールの絵には、その奇跡が当たり前のようにちりばめられる。個人的には「硬い絵の時代」以降も嫌いではないが、やはりこの時代を頂点としたい。

「絵は楽しく、美しくあるべきだ。」自らの芸術に対するルノワールの信念は生涯変わることはなかった。

 ルノワールの絵には暗い影はない。人間の闇の部分に迫る鋭い筆触も、自らの苦悩や蹉跌、魂の叫びも画布に刻まれることはついになかった。「幸福の画家」とひと言で語ることはできない。美しく楽しいものだけを描いて、その本質に迫る。誰もがなし得ないことをルノワールは実践し完遂したのだ。私は心惹かれる美しいものを描写したり、表現したりするときに、あえて別の側面を見ようと試みる。多くはネガティブなものだ。それを併置、対比することにより、より深い認識へと導こうとする。人間的な浅さを小手先の詭弁で繕うように。私は「楽しく美しいもの」の持つ美徳に真摯に向き合う努力を怠ってはいないだろうか? そう、私は嫉妬しているのだ。ルノワールの純粋無垢な芸術性に。そして素直になれない自分から目を逸らしていたかったのだ。「微笑んでいるよりも、しかめ面をした芸術のほうがいつの世でも注目される。」ルノワールの嘆きが、今胸に突き刺さる。






目次へ戻る / 前のエッセイ / 次のエッセイ