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自らを映す鏡 レンブラント




レンブラントの自画像が苦手だった。50作を超えるという名品揃いの作品群に辟易し、長らく目を背けてきた。そもそも画家はなぜ自画像を描くのだろうか。デューラーやクールベのように自己愛と自己顕示欲の表出であると素直に理解できるときは、画家も人の子であると、むしろ好感を持って鑑賞することができるのだが、レンブラントの自画像を前にすると、とたんに息苦しくなる。自己愛でも自己嫌悪でもない。淡々と自分を見つめ、自らの歴史を画布に刻んでゆく。初期には筆勢に若さがあり、晩年には老練な筆捌きが見られる。しかし自らに向き合う姿勢にはいささかの違いも感じられない。巨匠の語る魂の声を受け止める度量もなく、勢いで客席から舞台に上がった道化師の私は、後には戻れない焦燥感と、茶番にはできない画家の人生に、しばし翻弄されることになる。

レンブラントは創作活動の初期であるライデン時代からすでに、その名は広く知られていた。雄飛してアムステルダムに移り住んでからは、肖像画家としてその名声を不動のものにする。ため息の出るような細密描写と息を飲む大胆な筆遣いの見事な融合。光と影の巧みな表現は、歴史画には迫真の物語を、宗教画には深い精神性を紡ぎ出す。多くの弟子が彼の元に集まり、名家の娘サスキアと結婚し上流階級の一員となる。豪邸の購入、美術の蒐集、そして長男ティトゥスが誕生する。レンブラントの人生における絶頂期に「34歳の自画像」(図版左)は描かれた。自信に満ち大画家の威厳すら感じるが、その瞳には他を睥睨するような冷たさはない。肖像画の天才は、しっかりと自分自身を見つめている。

1650年代なかば、英蘭戦争の後、アムステルダムは不況のどん底にあり、画家としての名声は保たれてはいたが、絵は売れなくなった。長年の驕奢な生活のつけが回ってきた。債務に追われ、ついに自己破産の憂き目をみる。追い打ちをかけるように、サスキアなき後の伴侶、ヘンドリッキェが死去すると、5年後の1668年には最愛の息子ティトゥスが27歳の若さで世を去った。経済的な破綻、愛する者との死別。最晩年の1669年に「63歳の自画像」(図版右)は描かれた。この絵について、多くは語るまい。老画家の孤独とか、哀愁とか、諦観とか、言葉にするとその本質を見失ってしまう。自己愛も自己嫌悪も、自分自身の中で完結する私小説に過ぎない。しかし、レンブラントは自らを客体として冷徹に見つめる事によって、ひとりの短い人生では完結し得ない「光と影」を表現しているのだ。自画像は自我像であると気づいた瞬間、舞台を照らすスポットライトは不意に消え、道化師はひとり取り残される。自らを映す鏡は何処にあるのだろうか。喜びも、悲しみも、嘆きも、怒りも、ひとたび反射すると、生きることの意味に収斂し、揺るぎない像を結ぶレンブラントの鏡。私はいつかそれを、自分自身の鏡として見つける事ができるのだろうか。





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