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セーヌとロワンに魅せられた色彩の詩人 シスレー






「私は感動を求めて絵を見るのではない。絵を見るから感動するのだ」。以前うそぶいた言葉を苦々しく思い出した。先日、とある展覧会に足を運び、某画家の代表作を前にした時のことである。名画と言われる作品と初めて向き合う際、一般的な評価と自らの価値観に乖離を感じることも希ではない。私は自分の脆弱な感性に当惑しながら、知識を動員し分析的な鑑賞モードに陥ってしまう。考え抜かれた構図。配色とその効果。主題や背景に散りばめられた寓意や隠喩。そのひとつひとつを吟味し、私の中での名画が完成する。日和見的な私は、遅れてきた感動を享受するにやぶさかではない。しかし乖離を埋める過程で、雷同や迎合が暁天の星ほどもなかったと言い切れるだろうか。所詮素人の鑑賞眼とはその程度のものである。そんな私にとって、シスレーの絵は心安らぐものである。魂を揺さぶる感動を求めようにも、劇的な色彩表現もなければ、躍動感あふれる構図とも無縁である。穏やかな風景がしっとりと描かれているに過ぎない。しかし、セーヌ河畔やロワン河に照り返す陽光のきらめきや、川面を吹き抜ける風。さざめく木々のハーモニー。遠慮がちに描かれる人物の佇まい。そのどれもに共振する1本の弦が、私の中に存在する。振幅は小さく音量も控えめではあるが、澄んだ音色で心にしみこんでくる。

図版は1872年の「セーヌ河岸のヴィルヌーヴ・ラ・ガレンヌ」。普仏戦争を機に、裕福だった父の商売が傾き、病に倒れ他界。家族を養うために精力的に制作活動をし始めた頃の作品である。前景となる木立の影は、暖かな木漏れ日を作り、その揺らぎに誘われるように、遠景には対岸の土手や家々が明るく描かれる。その間を蕩々と流れゆくセーヌ川。およそシスレーらしくない大胆な構図に心惹かれる。岸辺から離れて係留された小舟は、忘れかけていた思い出か、それとも遠い日の記憶か。シスレーの絵によく描かれる無人の小舟は、私の想像力を少しくかき立てる。その僅かな感情の揺らぎが心地よい。

最も印象派らしい印象派と言われ、生涯その画風を変えなかったシスレーはしかし、フランス人ではなく、イギリス人を両親としてパリで生まれた。異邦人(エトランジェ)であるが故に、生まれ故郷としてのイル・ド・フランスの原風景を、フランス人よりフランス人らしく描けたのであろう。他の印象派の画家たちと異なり、シスレーはその生涯を通じて無名であった。60歳で世を去った2ヶ月後、評価が高まり、20年後には晩年を過ごしたモレ・シュル・ロワンに銅像が建った。遅すぎる名声もシスレーの人となりを表している。「感動は求めて得られるものではなく、裡なる魂から自然に湧き出るものである」。そんな当たり前のことを、セーヌの詩人シスレーは、詩情豊かな作品で私に語りかけてくれる。


 



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