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りんごと友情 セザンヌ






絵画史に燦然と輝くセザンヌの代表作を前にして、さて私はどう筆を運べばいいのだろう。頑迷固陋、独善的な美意識に凝り固まった三十代までの私には、セザンヌの良さが分からなかった。静物画における色彩のボリュームとその配置の妙に感嘆はしても、感動はしなかった。彩度の低いくすんだ風景画には、陽光の温もりも、緑葉の息吹も、吹きそよぐ風の薫りも感じることができなかった。内面に鋭く迫る肖像画も自分自身が見透かされているようで苦手だった。しかし、不惑を越え天命を知る歳になると、頑なだった美意識は次第にほぐれ、今、セザンヌが好きになりかけている。

 図版はセザンヌの静物画の集大成とも言うべき1899年の作品「りんごとオレンジ」。テーブルにお置かれた果実と陶器は、いくつかのモチーフに分割され、それぞれが一番見やすい角度、三次元的な奥行きが得られる視点から描かれる。それらが二次元のキャンバスに配置されると、テーブルは歪み、水平は失われ、遠近感は破綻する。しかしこれは、デッサンの狂いではなく、考え抜かれた構図であるのだ。見えるように描くのではなく、対象の本質を捉え、咀嚼し反芻し、再構築して描ききる。その過程で費やされた画家のエネルギーが、静物の圧倒的な存在感として結実する。色彩にしてもそうだ。それ自体が確固として存在しているのだから、説明的なハイライトもシャドウも不要である。よりりんごらしく、よりオレンジらしく見えるように色は重ねられ、本来白であるはずのテーブルクロスにはいくつもの色が加えられる。

「普通の画家の描いたりんごはおいしそうに見える。だが、セザンヌのりんごは美しい」。ある批評家が述べた有名な言葉。私には空疎な言葉遊びにしか聞こえない。美しいという言葉に、どれだけの意味を持たせれば、セザンヌのりんごをひとつのフレーズで表現することができるのだろうか。エクスの中学時代、友達にいじめられていたゾラを、セザンヌがかばったお礼に、ゾラは一籠のりんごをセザンヌに贈った。りんごは変わらぬ友情の象徴となった。パリでの再会。芸術論を語り合ったカフェ・ゲルボア。ゾラは金銭的にもセザンヌを援助する。しかし決別は突然やってきた。送られてきたゾラの小説「制作」は名声を得られず自殺する画家の物語で、自分がモデルになっていると感じたセザンヌは深く傷つき、儀礼的な手紙をしたためた後、ゾラと絶交する。絶交の理由は諸説あるが、いずれにせよセザンヌは気づいていたのだろう。文学者として確固たる地位を得た友人に対する嫉視、頑愚で偏狭な自分自身に。その忸怩たる思いと、失ってしまった大切なものに対する哀惜への反動が、「いまにりんごひとつで、パリ中を驚かせてみせる」とセザンヌに言わしめたのではないだろうか。和解を得られぬまま、ゾラは1902年ガス中毒で世を去る。四年後、ゾラの胸像の除幕式で、セザンヌは人目も憚らず慟哭したという。決別の期間を経ても、一籠のりんごはセザンヌの心のテーブルに置かれていたのだろう。





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