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弱者の美学 ジョワン・ミロ







所詮絵画は平面的なオブジェである。絵具の重なりを考慮してもたかだか1cm程度。しかし、そこには主題が立体感をもって浮かび上がり、時間的な厚みを感じることが出来る。それは単に物理的な4次元の時空にとどまらない。時代を反映する思想や個人的な思惑、ほとばしる感情や沈降する感傷、刹那と永遠の相克と融合、それらを内包し発散する力が、画面に奥行きを与えているのだ。それは9割以上画家の技量によるものであるが、残りの数パーセントは鑑賞者に委ねられる。その数パーセントが楽しくて絵画鑑賞がやめられない。

図版はシュールレアリズムの画家、ジョワン・ミロの「明けの明星」。さて私に与えられた数パーセントの裁量だけでは、画面に奥行きを感じることが出来ないし、滔々たる時間の流れも感じない。では、この作品は私の心に響かない芸術作品なのだろうか?答えは「否」である。個人的な嗜好で言えば、シュールレアリズムは好きだが、その手法のひとつである自動記述(オートマティスム)は苦手だった。だがしかし、学生時代私の部屋の壁を飾っていたのは、ダリではなくミロだったのだ。ミロの絵に向かうとき、いつもその時の気分に合ったリズムが聞こえて来た。本来リズムは時間をおって刻まれる物だが ミロのリズムは常に同じ時間の中で拍動しているように感じる。それだからこそ、永遠の時を刻む音楽として心に響いてくるのだろう。「明けの明星」は1940年から制作され始めた23枚の連作『星座』のうちのひとつである。38 cm × 46 cmの紙に描かれた小品だが、その存在感は見事だ。工夫を凝らして設えた紙表面の凹凸に、鮮やかで柔らかなグラデーションが背面を彩り、繊細な線と原色の面が躍るように活写される。朝焼けに舞う鳥の伸びやかな翼、救いを求める人々は明けの明星輝く金色の空へ昇天する。フランコ将軍の圧政、ナチズムの台頭、世界大戦の暗雲、そのすべてからミロは逃避したかったのだ。戦うことから逃れた弱い自分は鳥や星や音楽となって、ミロ独自の造形言語へと昇華する。1937年パリ万博でピカソ「ゲルニカ」とともに反戦・反ファシズムを世に問うた憂国の芸術家の熱き拳を、「明けの明星」からは感じることは出来ない。弱者の美学。しかしそれは負け犬の遠吠えでは決してない。逃避する弱い自分をありのままに見つめ、武器を持たぬ、いや持つことを拒む人間の名誉と誇りを、そして来るべき希望に満ちた未来への期待と夢を、不撓不屈の精神をもって描ききった名作だと思う。アンドレ・ブルトンの言葉を借りるまでもない。『星座』の連作は、人間を狂気の蛮行へと駆り立てる魂の荒廃に対する、芸術的レジスタンスそのものである。「空中に飛び跳ねたければ、地面に足をつけていなくてはならない」ミロの言葉を思い出す。「明けの明星」に描かれた大地にうずくまる2羽の鳥は、独裁政権下で雌伏するミロを、そして空へ羽ばたく鳥は、その後のミロの芸術家としての雄飛を象徴している。数パーセントの裁量で達した結論。その浅薄さに苦笑する。道のりはまだ遠い。辿り着ける見込みもない。だからこそ絵画鑑賞はやめられない。






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