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木いちご・遠い日の記憶 シャルダン

 

東京丸の内にある三菱一号館美術館は、2010年に開館した新しい美術館ではあるが、明治時代に建てられた洋館をそのまま再現した建物で、煉瓦造りの重厚な佇まいは、近代的なビル群の中にあって、心安らぐ都会の緑陰といった趣がある。道路に散りばめられたイチョウの葉が、秋の余情を名残惜しげに彩る頃、私はこの美術館で心の友シャルダンに再会した。心の友という表現は、潤色の誹りを受けようか。それは一方的な思い入れに過ぎない。微かな味覚、小さな果実の思い出が私の心を満たし、さて私は、ビジネス街の喧噪を逃れ、新しくそして古びた館の中で、ひとりぽつねんと立ち止まった。

 図版はフランス・ロココの巨匠シャルダンの「木いちごの籠」である。瑞々しい野いちごが籐の籠に山積みされ、白いカーネーションが清楚に描かれる。グラスの水は限りなく透明で乾いた喉を何度でも潤してくれる。赤い果実と白い花びら。甘く芳しい果物の香りと無味無臭の水。和毛で覆われた柔らから桃と硬質で冷たいグラス。対極にあるものが奇跡的な調和を保ち、安定した構図にも助けられ、心に安らぎを与えてくれる。貴族的な驕慢さとも庶民的な卑近さとも無縁である。「木いちごの籠」、シャルダンの静物画の頂点にして、時代を代表する名画であると私は思う。所々に見られる印象派的な筆致は、新古典やロマン派を飛び越えて、近代絵画の嚆矢とも言えるだろう。元来私は、ロココの絵画をあまり評価してはいなかった。評価しないと言ってはおこがましい。単に好きではなかったと言い換えよう。ラトゥールのポンパドール婦人の典雅さは肖像画の最高傑作だと認めるし、ブーシェの絢爛さには心躍るものがある。だが私の心はフラゴナールのブランコのようには揺れなかった。しかしてシャルダンの絵に出会って、私はロココの認識を変えざるを得なくなったのだ。シャルダンの作品が、新古典派が揶揄したロココとは、異質のものであると考えるのは容易であろう。しかし、彼の作品の中にこそ、ロココの真髄、その一端が隠されている気がしてならない。爛熟し隆盛を極めた時代には、飽食と退廃が付きまとう。シャルダンの絵画には享楽的で自堕落な影が微塵もない。地味で飾り気の無い画風にも関わらず、彼の絵を競って買い求めたのは、王侯や貴族であった。貴族は庶民の敵でもあり、憧れでもあった。貴族もまた、虚飾の生活に疲弊し、日常の質素な生活に、心の安らぎを求めたのだろう。シャルダンが歴史画家でないにも関わらず、第一等の画家として名声を確立し、貴賤を問わず支持されたのは、ロココの一側面であり、やはり歴史的必然であったのだろう。

 うりずんの季節、清明祭で集まった子供達は、お墓の裏にある雑木林で木いちご狩りをした。親に見つかると止められるので、茂みに隠れて、木いちごを口いっぱいほおばった。日頃会うことが少ない従弟同士が、一緒に遊べることが嬉しくて奇声を上げる「俺たちはいちご団だ!」。懐かしい面影が蘇る。大人達をのぞき見ると、今は亡き祖父と叔父、そして父がいる。母は日焼けを気にして日傘をさしている。「来年もまた探検しよう。」その約束は果たされなかった。あの時噛みしめた木いちごの甘酸っぱい味。シャルダンと語り合える共通の話題に心和ませて、私は愛すべき美術館を後にした。






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