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絵画という舞台 卓抜した技巧と演出 ドガ

  


 「エトワール」と題されるこの作品は、あまりにも有名なドガの代表作。多くの図版で幾度となく目にしてきた。多くの人が絶賛するこの傑作が、初めて日本で公開される。私は横浜まで足を延ばした。パステルの変色を避けるため、照明を落とした部屋へ入る。私は冷静を装った。期待は往々にして裏切られるものだ。辛抱強く順番を待って、絵の正面に立つ。息を呑んだ。胸の鼓動が止まる。膝に震えを感じ、足を踏み替えたが、奮えていたのは心だった。これは絵画表現の頂点を極める作品のひとつである。直感が確信に変わる。モノタイプと呼ばれる版画を下地として明暗の階調が整えられ、ここぞとばかりに疾走するパステルの濁り無き筆触。正確なデッサンとそれに拘泥されない躍動感。桟敷席からの急峻な俯瞰、主題を中心からずらした大胆な構図は浮世絵の影響か。左下からは強烈な舞台照明。その人工的な光に、美しく照らし出される踊り子の白い肌。観客への挨拶。軽やかに舞った後に、つま先から指先までぴたりと止まる。まさにその瞬間、舞台の星(エトワール)を称える喝采が最高潮に達する。
 美術評論家は講釈を垂れるだろう。舞台脇に描かれ、出番を待つ無名の踊り子達。地位と富では飽き足らず、色と欲にかられたパトロンの黒い影。華やかな舞台と、その裏にうごめく人間模様が作品に厚みを与えていると。絵の前に立って、私は今更ながら思い知る。知識や通説がいかに無用であるかを。私は観客の一人になって、エトワールに拍手をおくる。それだけでいい。丹青が織りなす五彩の絢爛に、ただ身を委ねていればいい。美術館を後にしながら、私はしたり顔でほくそ笑んでいた。蝶の鱗粉と見紛うパステルの粒子、そのひと粒ひと粒の煌めきはカメラでは捕らえられない。ましてや印刷などできるはずがない。この絵のすばらしさは、実物を見た人でなければ分からない。
 ドガは銀行家の裕福な家庭に生まれた。法律家を目指して大学に入学するも、絵画への情熱に逆らえず、画家となる。マネと共に印象派の父と称される事もあるが、その芸術的素地はむしろ守旧派の新古典主義にある。カフェ・ゲルボアに集う気鋭の画家達に多大な影響を与え、また彼等から多くを学びながらも、彼はそのスタンスを墨守した。「たくさんの線を引きなさい」恩師アングルからもらった金言とその弟子たる矜恃が、超然とした彼の芸術を支えている。生涯独身を通したドガは、気難しく頑固で仲間との衝突を繰り返し、晩年は孤独に暮らしたという。絵画という舞台の巧みな演出家、狷介孤高の画家にとって、むしろふさわしい幕引きであった。




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