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ため息の行方 神が宿る筆触 ベラスケス

    


 美術館でベラスケスの絵を見るとき、私は三度、ため息をつく。一度目は、その作品が展示されている部屋に入った時だ。どんな画家の、どの作品がその部屋の一角を占めていても、ベラスケスの絵は群を抜いて優れている。鶏群の一鶴と言っては他の画家に対して礼を失するが、ベラスケスの天才はそれほど圧倒的である。彼の絵が視野の片隅に入るだけで、その絵を見ることができる幸せにまずため息をつくのだ。全体を通観できる位置に暫く佇む。見事な画面構成、奇を衒う事のない安定した構図。何よりも衣装や室内装飾品の質感。ビロード、サテン、シルク、木綿、陶器やガラス。まるで指先で触れて感じるように網膜が反応する。そして私は、美術館の監視員の視線を気遣いながら、出来るだけ顔を近づける。するとどうだろう、精緻に描き込まれたと思われた、衣服の襞の照り返し、繊細な髪の毛の一本一本、光り輝く装飾品のひとつひとつは、平面的な素早い筆触で、一見無造作に描かれているにすぎない。しかし再び離れて鑑賞すると、たちまち写実的なマチエールと立体感を取り戻す。私は二度目のため息をつく。ダリが言う。「ベラスケスがいなければ、マネもモネも存在しなかっただろう」と。
 図版は、プラド美術館、門外不出の傑作にしてスペインの至宝「ラス・メニーナス」。中央で愛らしくポーズをとる少女は、国王フェリペ四世の愛娘マルガリータ。ベラスケスは二歳から九歳までの王女を幾度となく描いた。どれもが愛情豊に端正に描かれている。幼いながらも威厳すら感じる。しかし、そこには天真爛漫な少女の笑顔はない。ハプスブルグ家の存亡と復興を担い、十三歳にして他家に嫁ぎ、次々と嬰児を病気で失うと、自らも二十一歳の若さで夭折した王女の薄幸の未来を暗示している。
画面中央左手には、巨大な画布に向かうベラスケス自身が描かれている。女官達もマルガリータも、鏡に映る国王夫妻さえもが、宮廷の日常・とある瞬間の一部となる。それをあまねく映し出す宮廷画家ベラスケス。その表情は自信に満ちてはいるが、尊大ではない。画家としての自らの歴史をありのままに写し取る。「人間の価値は、権力や富や美にあるのではなく、存在するという事実にある」このベラスケスの言葉に、真に偉大な芸術家の誇りを見る。事実、庶民を描いた肖像画全てが、名作の名をほしいままにしている。人間を輝かせているのは煌びやかな衣装でも宝飾品でもないことを知る。
もう一度その絵の前に戻りたいという衝動を抑えて展示室を後にする。でも振り返らずにはいられない。今度はいつ会えるのだろうか。私は最後のため息をつく。




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